富貴の思想

─『徒然草』

Seibun Satow

 

「『贅沢は敵だ』なんて、戦争中の標語を今さら聞きたくない。そのころのパロディにあったように、贅沢は素敵なのだ。世は華やぐのがなにより。せめて、心だけでも贅沢したい。それでぼくは、むしろ『富貴の思想』をひろめたい。そのほうが、めでたい気分がするではないか」。

森毅『「清貧の思想」なんていやだ』

 

 つれづれなるまゝに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。 

(序段)

 

 『徒然草』の作者は退屈な時間をうまくすごすため、硯に向かう。優雅で、悪くない。書いているうちに、脈絡に欠け、とりとめもなく、不安定で、自分自身を震撼させる思いもしれない何ものかを見出してしまう。作者の内観は見たくないものさえも認識している。それが狂気と名付け得るだろう。

 この序段の後、『枕草子』以来の形式を拝借した二四三段のコラムが続く。それは、素材・話題・内容において、多彩である。作者は、まじめくさってと言うよりも、ユーモラスな口調に乗せて、説話や処世訓、人物描写、思想、自然観照などを記している。なんでもありという感じだ。

 作者は、内容に応じて、和漢混合文や和文を使い分けている。また、係り結びを用いてコントラストをつけ、全般的に平易な表現をとっている。

 係り結びは係助詞と特定の活用形によって強調や反語、疑問の効果を示す用法である。具体的には、強調の「ぞ」や「なむ(なん)」、反語の「や」、疑問の「か」に対しては結びが連体形、強調の「こそ」には已然形となる。これらを効果的に使うと、文章にアクセントがつく。

 各段の間に相反する主張が見られないわけではない。作者は、第八七段において、酒を褒め称えたかと思うと、第一一七の段では飲酒を縛めている。また、第一八四段が松下禅尼の堅実さに言及している一方で、第四五段はやることなすこと裏目となる良覚僧正の姿を描いている。読み進むにつれ、作者の論理展開が集中化せず、拡散していく。

 しかし、これは矛盾ではない。

 

 わたしの叙述は、種々さまざまな変わり易い偶然事と、定めのない、否、時には相反する空想との、記録である。それはわたし自らが変わるからであろうか。それとも物事を別の事情、別の考察の下にとらえるからだろうか。とにかくわたしは時と場合でずいぶん矛盾したこというらしいが、真実を曲げたことはない。

(ミシェル・ド・モンテーニュ『エセー』)

 

 モンテーニュは、書く行為を通じて、私自身と私というものの二重性を見出している。彼の『エセー』は物語性のない告白であり、論理の隙間が多いため、読者がそれを補う必要がある。しかし、それは倫理を衒学的なスコラ哲学から日常生活へとり戻す試みである。なるほど、法学や医学、神学を大学内で語るのは、一定の手順や規則に基づいていなければならないが、倫理を考えるには、必ずしも、そうした道筋に従う義務はない。と言うのも、人は生きていく限り、誰でも倫理に則っているのであり、倫理を語ることができるからである。

 『徒然草』の作者も、モンテーニュ同様、モラリストである。「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書き」つくることが作者の思索のすべてである。こうした自由連想による記述は、当然、アフォリズム的・非体系的にならざるを得ない。

 作者自身はその原稿に『徒然草』とタイトルをつけることも、二四三に段落分けすることもしていない。それらは後の人々が行ったものである。

 モンテーニュが『エセー』を書き綴っていた時期は宗教改革の時代である。新旧両派の非妥協的かつ非寛容な態度がぶつかり合い、血なまぐさい衝突も少なくない。こうした社会状況下、モンテーニュは司法界から引退し、書斎に閉じこもり、一五九二年に亡くなるまでの二〇年間、後に『エセー』と呼ばれる原稿を記し続けている。

 『徒然草』も戦乱と無縁ではない。このテキストは鎌倉末期に執筆されたと見られている。その成立に関しては大きく二つの説がとられている。一つは作品の大部分が一三三〇年末から一三三一年までの一年間に完成したという説であり、もう一つは長期に亘って成立した説である。後者には、文体及び哲学の変遷を根拠に、二つの時期もしくは三つの時期に分けて書いたという二つの意見がある。いずれにせよ、議論を終わらせるだけの決め手はない。

 『徒然草』成立期の前後、社会は激動している。半世紀前の一二七四年と一二八一年の二度、元の軍が九州沖に来襲している。また、執筆後になると、一三三三年、鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政が始まり、一三三六年、足利尊氏が室町幕府を開いている。『徒然草』は、混乱と動乱を背景に、書かれたのである。

 けれども、『徒然草』と『エセー』の間には、大きな違いがある。それは『徒然草』の作者が「私は何を知っていよう?( Que sais-je?)」と口にしなかった点である。自分自身のことをほとんど語っていない。その意味では、モンテーニュよりも、ラ・ロシュフコー公に近い。

 

 太陽も死もじっと見つめることはできない。

 

 すぐれた面を持ちながら疎んじられる人がおり、欠点だらけでも好かれる人がいる。

 

 恋人同士がいっしょにいて少しも飽きないのは、ずっと自分のことばかり話しているからである。

(『ラ・ロシュフコー箴言集』)

 

 言うまでもなく、宮廷の人間観察から虚栄心やエゴイズムを見出したこの人物と比べて、『徒然草』の作者は辛辣ではない。『徒然草』の作者は、知的であれ、情緒的であれ、感性的であれ、絶対的な価値判断を下さない。肯定するときでさえ、「そこはかとなし」や「あやし」といった形容詞をつける。断定はせず、まろやかに話している。

 『徒然草』の作者によるいずれの発言も相対的であり、状況によって決まる。と言うのも、すべては常ならざるもの、すなわち無常だからである。

 

 人はたゞ無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、つかの間も忘るまじきなり。さらばなどか此の世の濁りもうすく、佛道を勤むる心もまめやかならざらむ。昔ありける聖は、人のきたりて自他の要事をいふとき、答へていはく、「今火急の事ありて、既に朝夕にせまれり」とて、耳をふたぎて念佛して、終に往生を遂げたりと、禪林の十因にはべり。心戒といひける聖は、餘りにこの世のかりそめなることを思ひて、靜かについゐける事だになく、常はうづくまりてのみぞありける。

(第四九段)

 

 身を助けむとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の來ることは、水火の攻むるよりも速かに、遁れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらむや。

(第五九段)

 

 兵の軍にいづるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ身をも忘る。世をそむける草の庵には、しづかに水石をもてあそびて、これを他所に聞くと思へるは、いとはかなし。しづかなる山の奧、無常の敵きほひ來らざらむや。その死に臨めること、軍の陣に進めるにおなじ。

(第一三七段)

 

 作者は何かに固執する姿勢をこころよく思っていない。すべてが常ならざるものであるにもかかわらず、人は何かに執着し、精神的に依存して生きている。変化を拒絶し、それを憎む結果、狂信へと陥ってしまう。

 語り手は、いくつかの段で、僧侶を批判している。僧侶こそ無常を認識しなければならないはずなのに、喪失であるかのごとく考え、それに耐えきれない。僧侶はこうした自己矛盾にいささか無自覚である。

 作者は無常を認識した上での倫理を語る。常ならざる状況では、それに応じて、その都度、判断していくほかない。しかし、それを悲観的に捉えてはいない。むしろ、ユーモアをこめて、語っている。無常は忌み嫌うものではない。

 

 夜に入りて物のはえ無しといふ人、いと口惜し。萬の物のきら、飾り、色ふしも、夜のみこそめでたけれ。晝は事そぎ、およすげたる姿にてもありなむ。夜はきらゝかに花やかなる裝束いとよし。人のけしきも、夜の火影ぞよきはよく、物いひたる聲も、暗くて聞きたる、用意ある、心憎し。匂ひも物の音も、たゞ夜ぞひときはめでたき。さして異なる事なき夜、うち更けて參れる人の、清げなる樣したる、いとよし。若きどち心とどめて見る人は、時をも分かぬものなれば、殊にうちとけぬべき折節ぞ、褻晴れなく引きつくろはまほしき。よき男の、日くれてゆするし、女も夜更くる程に、すべりつゝ、鏡とりて顔などつくろひ出づるこそをかしけれ。

(第一九一段)

 

 世間は、概して、昼と夜とでは昼を好む。けれども、夜も捨てたものではない。僧は言っても、夜だから街の灯によって映える美はつまらない。夜でなければ見えない色や聞こえない音というものがあるものだ。夜には夜の美しさや楽しみがある。夜に昼を求めてどうするというのだろう?

 こういう美意識は、後に、さびと呼ばれることになる。本来は好ましい概念ではなかったけれども、『徒然草』は枯れた味わい深さや落ち着きある趣を讃えている。室町時代に、俳諧の世界で重要視されるようになり、能楽などにもとり入れられて理論化される。「ぼくは信心があまり深くないのに、古利に憧れている。コケむした岩が無造作にあり、古木が茂る境内で静寂に身をゆだねて、ボーっとたたずんでいると、なんだか心が休まる。観光資源になっているわけでもなし、参拝者が訪れるでなしの朽ちはてた古いお寺でも、なんとなくいい感じである」(森毅『可愛いなあと愛でてもらえば本望です』)。

 光に対する闇の美しさを説いた人として谷崎潤一郎が挙げられる。彼は『陰翳礼讃』の中で「かく考えて来ると、われわれの料理が常に陰翳を基調とし、闇と云うものと切っても切れない関係にあることを知るのである」と陰翳を讃えている。日本の生活文化が家屋の薄暗さや蝋燭のほのかな灯の下で醸成されてきたのであり、洋風文化への傾倒はそれを台無しにしているというわけだ。「あまりに切実なる作者の悲願が、綿綿として泣訴される嘆きを感じ、悲しくも美しい抒情詩をよむ思いがする」(萩原朔太郎は『思想人としての谷崎潤一郎と正宗白鳥』)

 しかし、『徒然草』の作者は陰翳の優位さを提唱するにとどまらない。

 

 神佛にも、人の詣でぬ日、夜まゐりたる、よし。

(第一九二段)

 

 昼と夜だけでなく、個人と集団が対比されている。フランツ・カフカが『夜に』で描いているように、夜は人に自分自身が単独者であることを意識させる。人は不安定さに耐えられず、群れたがる。それに対し、作者は単独での行動を唱えている。「みんなが不安感で群れをなすときに、自分ひとりで不安を抱えこむ。こちらのほうが案外、不安は早く消えてなくなる」(森毅『人生、ひとりで渡れば怖くない』)。

 作者は集団への無批判的な埋没をことあるごとに茶化している。

 

 丹波に出雲といふ所あり。大社を遷して、めでたく造れり。志太の某とかやしる所なれば、秋の頃、聖海上人、その外も人數多誘ひて、「いざたまへ、出雲拜みに。かいもちひ召させむ」とて、具しもていきたるに、おのおの拜みて、ゆゝしく信起したり。御前なる獅子狛犬、そむきて後ざまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやういと珍し。深き故あらむ」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝の事は御覽じとがめずや。無下なり」といへば、おのおのあやしみて、「まことに他に異なりけり、都のつとにかたらむ」などいふに、上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官をよびて、「この御社の獅子の立てられやう、定めてならひあることにはべらむ。ちと承らばや」といはれければ、「そのことに候。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候ことなり」とて、さし寄りてすゑ直して往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

(第二三六段)

 

 冷やかされているのは、子供がいたずらした獅子と狛犬にいわれがあると勘違いして涙した上人だけではない。不審に思いつつも、都の土産話にしますと言う一向もからかわれている。集団は権威主義にながされやすいものである。見習いの僧の練習を藤原定家の書と信じてありがたがる御隠居は、どこにでもいるものだ。横丁の隠居爺さんだけでなく、変だけれども、御隠居様がああ拝んでいらっしゃるのだからと手を合わせる八や熊も同じように笑いの対象となる。

 言ってみれば、『徒然草』はおとぼけじいさんの随筆である。鴨長明は、『方丈記』において、気品のある和漢混合文を使い、修辞法としては、対句と比喩を多用している。けれども、『徒然草』にはそうした端正さはない。『徒然草』の会話は生き生きとしているが、それは聞いた通り書かれているからではなく、おもしろがって、軽く書いているからである。襟を正して読むにはふさわしくなく、茶目っ気を味わうほうがいい。

 

 湯川さんはとてもおもしろい人で、

「森クン、君は輪廻を信じんやろ?それは楽観論やぞ。わしはな、死んでもしブタに生まれ変わったらどないしようかと思うとった。ところが年をとるとだんだん悟ってきたんか、ブタになったら、それはそれでおもろいやないかという気になってきた」

 と、本気で打ち明けていた。

(森毅『こだわりなしの割りきりがダンディズム』)

 

 しかし、この『徒然草』は執筆された後、残念ながら、一部の僧侶や貴族の間で知られていたにすぎない。室町幕府の九州探題である今川貞世は作者と思しき人物の弟子の命松丸とも親交があり、編纂に関わったのではないかと推測されている。書かれた一〇〇年は注目されなかったが、室町中期になって、僧侶の正徹がとり上げる。彼の写本は、現存するものとしては、今のところ、最古と見られている。

 けれども、『徒然草』が真の意味で発見されるのは江戸時代である。関が原の戦いが一六〇〇年、すなわち慶長五年の出来事であるが、その慶長期に最初の『徒然草』ブームが起こり、その後、江戸時代を通して町人の間で最も読まれた本となる。江戸期というのは、印刷技術の発達により、世界的に見ても、商業出版が盛んな次代である。それでも、江戸末期までに五〇種以上の版行が出版されたというのは群を抜いている。

 印刷自身の歴史は古く、八世紀には、藤原仲麻呂の乱の後、為政者が秩序の回復宣言として百万塔陀羅尼を発行している。その後、寺院を中心に、仏教書や中国古典の印刷が行われたものの、文字テキストの多くは筆写による写本として貴族などの間に流通していただけであり、印刷技術は僧侶が独占している。

 当時の印刷技術は板に直接文字や絵を彫りこみ、印刷する整版である。しかし、一六世紀末に、活字印刷の技術が伝わり、事情が変わる。ヨーロッパのキリスト教徒が布教のために活版印刷機を持ち込み、また、豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵させた際、金属活字の印刷機を戦利品として日本に持ち帰っている。これらに影響され、木製の活字を使った印刷技術が日本に誕生し、幕府や大名、商人がそれによる印刷を始める。一七世紀には、仏教書ならびに中国古典だけでなく、文学作品や実用書が出版され、商業出版を生業とする業者が生まれている。この活版印刷を使った印刷が民間の出版業者を誕生させる。

 しかし、この技術は少量を印刷するには適しているものの、活字をページごとに組み直ししなければならなかったため、一〇〇〇部や二〇〇〇部という大量の印刷には向いていない。当時、一万部を超す出版物さえ巷に出回っている。ちなみに、現在、講談社文芸文庫の初版の発行部数は四〇〇〇部である。また、ルビをつけたり、挿絵を入れたりしにくいというのも難点である。結局、活字印刷は五〇年間位で衰退してしまう。

 西洋の歴史において、「グーテンベルク革命」と呼ばれる通り、活版印刷が果たした役割は極めて大きいが、日本では、下火になった整版が復活し、かつてない出版文化が花開く。原板さえあれば、繰り返し印刷が可能であり、しかも、ルビや挿絵も入れやすい整版は当時の大量出版に適している。活版印刷は、日本では、出版業者を生み出すという歴史的役割を果たし、明治になるまでほとんど省みられることはない。

 この整版印刷によって、ありとあらゆる本が出版されている。文学作品、思想書、中国古典、実用書、名所旧跡案内、道中記、地図、法帖、双六、歌舞伎・浄瑠璃・祭礼の番付、俳諧の摺物、好色本、浮世絵、草双紙、暦、正月の宝船、夏の団扇、襖絵など巷には印刷物があふれていたと言っても過言ではない。

 現在、日本の「古典」と見なされている文学作品が一般に知られるようになったのも、江戸に入ってからである。『徒然草』を筆頭に、『日本書紀』や『古事記』、『万葉集』、『古今和歌集』、『伊勢物語』、『平家物語』、『太平記』、『源氏物語』、『枕草子』、『方丈記』は人気のコンテンツとして商業出版されている。

 横田冬彦の「『徒然草』は江戸文学か?─書物史における読者の立場─」によると、『徒然草』は、俳諧を始め浄瑠璃や浮世草子に影響を与えただけでなく、江戸の論語と言っていいほど、民衆の道徳規範として読まれている。良妻賢母を女性の理想とし、それを描いているように、儒教道徳が皇帝から庶民に至るまで姦通している大陸と違い、日本では、遊女をモデルとする美人画が発達した通り、全体を貫く道徳規範は希薄である。儒学の学問と縁遠い庶民は自らの倫理の基礎を宗教や学問ではなく、『徒然草』に求めたのである。

 「古典」を作ったのも江戸の商業出版である。中世において、書物は必ずしも読まれるものではない。『平家物語』や『太平記』は平曲や太平記読みによって口承として一般に流布し、『源氏物語』は絵巻物の絵解きを通じて有力者の子弟の教育に用いられている。それらは文字テキストと言うよりも、視覚や聴覚に訴えるメディアである。筆写本は流通絶対数が少なく高価であった。また電車のたびに移動が生じ、テキストの正確さにも問題があった。だから筆写本では多数に共有された知識にならず、『古典』の位置を占めることはない。逆にいえば近世の大量出版は、多数に共有されるテキストを生み出し、『古典』としての地位を確定させた」(辻本雅史『教育の社会文化史』))。古典は一部の読者の間で読み継がれてきた作品を指すのではない。正典化は知識人によって行われるのが常であるが、その要請は民衆化による。不特定多数の読者共同体に共有されていると認められた作品である。日本の思想史・文学史も商業出版の産物とも言える。

 商業出版の隆盛には、それを支える不特定多数の読者層がいなければならない。人々の識字能力を高めたのも出版メディアである。「古典」作品のみならず、その解説書や注釈本も盛んに出版され、独習を可能にしている。また、さまざまな稽古事や手習い、寺子屋、私塾などでも印刷された学習テキストが利用されている。さらに、幕藩体制の危機が叫ばれた18世紀後半になると、政治改革が急務となり、それまで一般の武士はあまり学問に熱心ではなかったため、武士の教育レベルの向上を目的に、藩校の普及が始まっている。そこでも教育用の藩籍の印刷テキストが使われている。

 こうした環境下、作者も読者に向けて書き始める。文学者や知識人は公開を前提として著作を発表し、自作や自説を読者と共有するネットワークの中にいるようになる。製版の印刷技術は公共空間を形成したと言ってもいいだろう。一八世紀のヨーロッパにおいて、フランス語の手紙のネットワーク「文芸共和国」が成立していたが、江戸の社会には「整版共和国」があったというわけだ。作者や知識人を作ったのも、日本においては、出版メディアだとも言える。

 『徒然草』はたんにテキストだけが販売されたわけでなく、他の古典同様、解説書や注釈本も相次いで出版されている。江戸時代の著名な歌人烏丸光広が句読点や清濁をつけた『徒然草』の版本を刊行し、数多くの注釈本が出版される。代表的な作品だけでも、秦宗巴や林羅山、青木宗胡、松永貞徳、大和田気求、西道智、加藤盤斎、高階楊順、清水春流、北村季吟、南部宗寿、高田宗賢、恵空、岡西惟中、浅香山井、黒川由純、隠者閑寿、各務支考などが挙げられる。ジャーナリスティックな状況と照らし合わせ、古典的作品を読解するという批評を誕生させたのだ。

 『徒然草』は、時代の変遷と共に、繰り返し解釈され直されている。秦宗巴は、慶長六年(一六〇一年)、江戸時代最初の注釈本『徒然草寿命院抄』において、『徒然草』を「兼好得道ノ大意ハ儒・釈・道ノ三ヲ兼備スル」、「草子ノ大体ハ清少納言枕草紙ヲ模シ、多クハ源氏物語ノ詞ヲ用ユ」、「作意ハ老・仏ヲ本トシテ、無常ヲ観ジ名聞ヲ離レ、専ラ無為ヲ楽シム事ヲ勧メ、傍ラ節序ノ風景ヲ翫ビ、物ノ情ヲ知ラシムル」と三点に要約している。 儒教・仏教・道教に影響を受けつつ、特に、仏教と道教を援用して無常を語り、無為を勧めているが、それは『源氏物語』に見られる「もののあはれ」にほかならないというわけだ。その後の江戸期の注釈本の多くは儒教的色彩が強い。幕府の御用学者林羅山は、『野槌』において、我田引水のように、朱子学に沿って『徒然草』を解釈している。五味文彦は、『「徒然草」の歴史学』において、「そうした色眼鏡をはずして、中世人としての兼好を読む試みが求められている」と述べている。

 江戸時代の知識人は、武家に近いせいか、自説以外を激しく批判する傾向がある。林羅山は朱子学以外を激しく糾弾し、自説に固執したことは有名である。江戸期の読解は、示唆を与えてくれることは確かであるけれども、権威のレトリックにより少々閉口してしまうことも少なくない。江戸の日本において、儒教はあくまで支配者層の道徳イデオロギーであって、町人はそれに忠実ではない。むしろ、儒教を遵守することで、武士は自らの為政者としての正当性を根拠付けている。

 新渡戸稲造は、『武士道』において、執筆動機として、ベルギーの法学大家故ド・ラヴレーから宗教教育なくして道徳教育をどのように行っているのかという問いへの答えであるとし、「私の正邪善悪の観念を形成している各種の要素の分析を始めてから、これらの観念を私の鼻腔に吹きこんだものは武士道である」と述べている。けれども、これは見当はずれである。江戸の武士が守るべき道徳の本流は山部素行のまとめた士道であって、儒教的な裏づけを欠く武士道は傍流にすぎない。また、新渡戸自身はともかく、儒教は藩校で武士に教えられている。しかも、町人は『徒然草』を道徳の基礎としている。新渡戸は、少なくとも、江戸の出版事情や教育システムについてあまり知識を持っていなかったことは確かだろう。

 明治になって、政府は新しい「国民」像を構築する際、庶民の習俗を禁止していく。急下級武士にとって、それらは恥知らずな行為であり、それに代わる道徳として武家的なるものが再構成される。『武士道』はそうした動きの一環にすぎない。『武士道』に立脚して日本や日本人のあるべき姿を今でも論じるとしたら、それは真に浅はかであろう。

 無常を認知できない人はしばしば世に憤るものだ。しかし、『徒然草』は社会や人々の将来像や憂いに触れることはない。出家して、隠者になっているのだから、世の行く末を心配する必要もなかろう?

 

 山寺にかきこもりて、佛に仕うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りもきよまる心地すれ。

(第一七段)

 

 とは言うものの、作者は俗世間と決別していたわけではない。

 

 ひとり燈火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなれ。文は文選のあはれなる卷々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。この國の博士どもの書けるものも、いにしへのは、あはれなる事多かり。

(第一三段)

 

 快楽主義者エピクロスは「隠れて生きよ」と勧めたが、中世の隠者も快楽を捨て去ってはいない。世捨て人は、必ずしも、俗世間から完全に離れていない。むしろ、文学者や芸術家になるためには、隠遁する必要がある。隠者は俗世間と別れて仏門に入ったり、芸術に励んだりする遁世人を指すが、本質的には、出世競争から降りることを意味する。そのため、僧侶となりながらも、寺院内の上昇志向を嫌い、山奥に隠棲した道心者こそ真の隠者と呼ばれる。彼らは修行の旅に出たり、山里に草庵を構え、そこで数寄に専念したりしている。『徒然草』成立期になると、こうした世捨て人は俗世間と関係が近くなり、「法体の地下人」、すなわち剃髪した芸能人と見なされるようになっていく。

 『徒然草』は草庵文学に含まれる。隠者は入庵後も都の人たちと交流が続けている。変化する時代に関心を持ちつつ、俗世の価値観に囚われず、社会や人々に対する観察・批評眼を示すのが草庵の隠者であり、草庵文学である。けれども、世捨て人は、災害や動乱を通じて無常を認識しても、『平家物語』の作者と違い、政治権力の移り変わりに無常を見出すことはない。『徒然草』の書き手は経験や知識、感性などに基づいて考察して、無常を感受する。社会の実相と個人の内面の思索の相互作用が草庵文学である。

 江戸の儒教は、さまざまな解釈があるにしても、武士に都合よく変更されている。幕藩体制は武人が支配層であるが、儒教がより厳格に守られている朝鮮半島では、武人が文人の下に位置している。日本化された儒教によって『徒然草』は解釈されてきたのだ。

 

 相模守時頼の母は、松下禪尼とぞ申しける。守を入れ申さるゝことありけるに、煤けたるあかり障子の破ればかりを、禪尼手づから小刀して切りまはしつゝ張られければ、兄の城介義景、その日の經營して候ひけるが、「たまはりて、なにがし男に張らせ候はむ。さやうの事に心得たるものに候」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ。」とてなほ一間づゝ張られけるを、義景、「皆を張りかへ候はむは、遙かにたやすく候べし。斑に候も見苦しくや」と、重ねて申されければ、「尼も後はさわさわと張りかへむと思へども、今日ばかりはわざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して用ゐることぞと、若き人に見ならはせて、心づけむ爲なり」と申されける、いと有り難かりけり。世を治むる道、儉約を本とす。女性なれども聖人の心に通へり。天下をたもつほどの人を子にて持たれける、誠にたゞ人にはあらざりけるとぞ。

(第一八四段)

 

 これを武士的な倹約のすすめではないだろう。さすがあの人はどこか見識が違ったという感慨である。倹約は金に囚われた発想であり、そうした禁欲主義的理想はちょっとかなわん。『徒然草』が訴えているのは、むしろ、「富貴の思想」である。「金があれば、金のことをあまり気にしないですむだろう。ヴォネガットの小説に、アメリカの大企業のオーナーで、地下鉄の駅に暮らすショッピング・バッグ・レディが主人公というのがあったが、彼女を『清貧』とは言えまい。金があるから、金のことを気にしないのだ」(森毅『「清貧の思想」なんていやだ』)。

 武士は、しばしば、力みすぎる。それは今でも亡霊のようにしつこく残っている。PKを蹴ろうとしている緊張したMFに、監督が大声で「緊張するな!」と忠告したところで、心がほぐれるわけでもあるまい。それどころか、余計硬くなって、ボールがバーの上を超えていきかねない。それを見て、監督は「見たか?緊張しやがって!まったく、あいつは、勝負弱い」と舌打ちするに違いない。

 

 口で言うほどこれはやさしくはない。集中したほうが力が出せる人とリラックスしたほうが結果につながる人と、能力とはべつに、明らかにキャラクターに違いがあるからだ。カリカリが有効な人とホドホドが有効な人と。

 でも世間では、がんばり味、集中味ばかりを強調する。カリカリへのプレッシャーが強い。その結果、ホドホドが有効な人までカリカリさせられる可能性がある。

 ホドホドはそもそもむずかしい。だって「そんなにカリカリせんと」と言われると、よけいカリカリしてしまうもの。プレッシャーだって同様。「プレッシャーを感じるな」ではなおのことプレッシャーが増す。ゆとりやリラックスはかように持ちづらい。だから、本来の自分の持ち味を発揮しているホドホド派の成功率が高いとも言えそうである。

(森毅『カリカリ派よりホドホド派が強い理由』)

 

 松下禪尼のエピソードは教育の比喩と考えることもできよう。師匠は弟子に意図的に何かを伝える際、直接的に述べず、喩えを用いる。弟子は師匠から技を盗んでこそそれを会得できるのであって、直接的な言明は押しつけにしかならない。教育とは教わるではなく、学ぶことによって成り立つ。

 こうした教育をめぐる段は他にも見られる。乗馬は武士にとって重要な技術である。作者は技術に関する細かな分析を記さないが、それに対するいかなる姿勢が好ましいのかを問う。

 

 城陸奧守泰盛は雙なき馬乘なりけり。馬を引き出でさせけるに、足をそろへて閾をゆらりと超ゆるを見ては、「これは勇める馬なり」とて鞍を置きかへさせけり。また足を伸べて閾に蹴あてぬれば、「これは鈍くして過ちあるべし」とて乘らざりけり。道を知らざらむ人、かばかり恐れなむや。

(第一八五段)

 

 吉田と申す馬乘の申し侍りしは、「馬毎にこはきものなり。人の力爭ふべからずと知るべし。乘るべき馬をばまづよく見て、強き所弱き所を知るべし。次に轡鞍の具に危きことやあると見て、心にかゝる事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乘とは申すなり、これ秘藏のことなり」と申しき。

(第一八六段)

 

 萬の道の人、たとひ不堪なりといへども、堪能の非家の人にならぶ時、必ずまさることは、たゆみなく愼みて輕々しくせぬと、偏に自由なるとの等しからぬなり。藝能所作のみにあらず、大方の振舞、心づかひも、愚かにして謹めるは得の本なり、巧みにしてほしきまゝなるは失の本なり。

(第一八七段)

 

 この三段を通じて、作者は下手な専門家と器用な非専門家では専門家を評価している。何かに固執する姿勢を煙たがる作者がこうした判断を示すのは少々意外かもしれない。けれども、非専門化のほうがあることに固着している。専門家はさまざまな状況を想定し、習得してきた知識や技術を照らし合わせた上で、判断を下すのでて、慎重である。一方、非専門家は出たとこ勝負にすぎない。作者はイデオロギーに固執し、窮屈となることをたしなめているだけではない。私に固執すること、すなわち我執も批判する。非専門家は、言わば、自分に囚われているのであって、それは、無自覚である分、厄介である。我執していては、技術や知識を学ぶことは難しい。

 我執に慎重な作者は自分自身についてほとんど触れていないが、作品の終わりのほうで私は何者なのか述べるだけでなく、八つの点で自身を褒めている。

 

 御隨身近友が自讚とて、七箇條かきとゞめたる事あり。みな馬藝させることなき事どもなり。その例をおもひて、自讚のこと七つあり。

一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の邊にて、男の馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて落つべし、しばし見給へ」とて立ちどまりたるに、また馬を馳す。とゞむる所にて、馬を引きたふして、乘れる人泥土の中にころび入る。その詞のあやまらざることを、人みな感ず。

一、當代いまだ坊におはしまししころ、萬里小路殿御所なりしに、堀河大納言殿伺候し給ひし御曹司へ、用ありて參りたりしに、論語の四五六の卷をくりひろげ給ひて、「たゞ今御所にて、紫の朱うばふ事を惡むといふ文を、御覽ぜられたき事ありて、御本を御覽ずれども、御覽じ出されぬなり。なほよくひき見よと仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるゝに、「九の卷のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あなうれし。」とて、もてまゐらせ給ひき。かほどの事は、兒どもも常のことなれど、昔の人は、いさゝかの事をもいみじく自讚したるなり。後鳥羽院の御歌に、「袖と袂と一首の中にあしかりなむや」と、定家卿に尋ね仰せられたるに、 秋の野の草のたもとか花すゝきほに出でて招く袖と見ゆらむと侍れば、何事かさふらふべきと申されたることも、「時にあたりて本歌を覺悟す、道の冥加なり、高運なり」など、ことごとしく記しおかれ侍るなり。九條相國伊通公の款状にも、ことなる事なき題目をも書きのせて、自讚せられたり。

一、常在光院の撞鐘の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣清書して、鑄型にうつさせむとせしに、奉行の入道かの草をとり出でて見せ侍りしに、「花の外に夕をおくれば聲百里に聞ゆ」といふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里あやまりか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり」とて、筆者の許へいひやりたるに、「あやまり侍りけり。數行となほさるべし」と返り事はべりき。「數行」もいかなるべきにか、もし「數歩」の意か、おぼつかなし。

一、人あまた伴ひて、三塔巡禮の事侍りしに、横川の常行堂の中、龍華院と書けるふるき額あり。「佐理・行成の間うたがひありて、いまだ決せずと申し傳へたり」と堂僧ことごとしく申し侍りしを、「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず」といひたりしに、裏は塵つもり、蟲の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、おのおの見侍りしに、行成位署名字年號さだかに見え侍りしかば、人みな興に入る。

一、那蘭陀寺にて、道眼ひじり談義せしに、八災といふ事を忘れて、「誰かおぼえ給ふ」といひしを、所化みな覺えざりしに、局のうちより、「これこれにや」といひ出したれば、いみじく感じ侍りき。

一、賢助僧正に伴ひて、加持香水を見はべりしに、いまだ果てぬほどに、僧正かへりて侍りしに、陣の外まで僧都見えず。法師どもをかへして求めさするに、「おなじさまなる大衆多くて、えもとめあはず」といひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それもとめておはせよ」といはれしに、かへり入りて、やがて具していでぬ。

一、二月十五日、月あかき夜、うち更けて千本の寺にまうでて、後より入りて、一人顔深くかくして聽聞し侍りしに、優なる女の、すがた匂ひ人よりことなるが、わけ入りて膝にゐかかれば、にほひなどもうつるばかりなれば、敏あしと思ひてすり退きたるに、なほ居寄りて、おなじさまなれば立ちぬ。その後、ある御所ざまのふるき女房の、そゞろごと言はれし序に、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉ることなむありし。情なしと恨み奉る人なむある」と宣ひ出したるに、「更にこそ心得はべらね」と申して止みぬ。この事後に聞き侍りしは、かの聽聞の夜、御のうちより、人の御覽じ知りて、さぶらふ女房をつくり立てて、出し給ひて、「便よくばことばなどかけむものぞ。そのありさま參りて申せ、興あらむ」とてはかり給ひけるとぞ。

(第二三八段)

 

 我執をうまくやりすごすことはちょいと面倒だ。自分のことばかり書くのはえげつない。さりとて、あまりに自分に触れないというのもいやらしい。終わりの辺りにさりげなく差し入れるのがよろしい。自画自賛するのも厚かましいし、卑下するのも下心を勘ぐられる、照れつつ、ユーモアをこめてまとめるのがかわいげがあるというものだ。

 しかも、作者は限りある生を踏まえつつ、明るく無常を感じている。

 

 望月の圓なる事は、暫くも住せず、やがて虧けぬ。心とゞめぬ人は、一夜の中に、さまで變る樣も見えぬにやあらむ。病のおもるも、住する隙なくして、死期すでに近し。されども、いまだ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念にならひて、生の中に多くの事を成じて後、しづかに道を修せむと思ふ程に、病をうけて死門に臨む時、所願一事も成ぜず、いふかひなくて、年月の懈怠を悔いて、この度もしたち直りて、命を全くせば、夜を日につぎて、この事かの事怠らず成じてむと、願ひをおこすらめど、やがて、重りぬれば、われにもあらずとり亂して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事まづ人々急ぎ心におくべし。所願を成じてのち、いとまありて道にむかはむとせば、所願盡くべからず。如幻の生の中に、何事をかなさむ。すべて所願皆妄想なり。所願心にきたらば、妄心迷亂すと知りて、一事をもなすべからず。直ちに萬事を放下して道に向ふとき、さはりなく、所作なくて、心身ながくしづかなり。

(第二四一段)

 

 無常と死は切り離せない。けれども、死の話題を避けるのも、悲観的に述べるのも、死に囚われている。死をさりげなく語ることが、まあ、いい塩梅というものだ。

 

質問 技官主義者と楽観主義者の違いは何か。

回答 悲観主義者は今日を最悪だと言うが、楽観主義者は明日を最悪だと言う。

(ダニス・タノヴィッチ『ノーマンズ・ランド』)

 

 『徒然草』の作者は吉田兼好だとされている。彼の本名は卜部兼好であり、それは京都吉田神社の神官の家系に由来する後代の呼び名である。一二八三年頃、卜部兼顕の子として生まれたと推測されている。一三〇一年、後二条天皇の蔵人として出征して、一三〇七年、左兵衛佐に任ぜられたのではないかと見られている。二〇歳代の初め頃、若の最有力者だった二条為世の門下に入り、二条家四天王の一人と呼ばれている。作品は『続千載集』や『続後拾遺集』、『風雅集』などの勅撰集に計一八首が収められ、私撰集の『続現葉集』にも入集している。一三一三年以前に出家したと考えられているものの、正確な時期は不明である。出家の際に、法名を「けんこう」と音読している。足利幕府の執事であった高師直に近づき、『太平記』に師直の恋文を代作して失脚したという記述があるが、その真偽もはっきりしない。一三五二年以降の生存は不詳である。従って、彼の生没年には「?」がついたままになっている。

 

  死んだあとのことは考えないことにしている。この世に生まれてきたのは、気がついたらいつのまにか生きていたのだから、だんだんと生きていることを忘れて、気がついたらいつのまにか死んでいた、というふうになれたら幸せだろうな、と思っている。

 活字で商売をしていると、書いたものがあとに残るのが、ちょっと困る。若いころに歌舞伎に凝っていた時代、「今月の六代目はいいですね」などと一言おうものなら、「なんの九代目はあんなものじゃない」と言うおじいさんがいた。今ならビデオがあるかもしれぬが、小屋で時間と空間を共有した体験には勝てぬ。しかしながら、その体験なるものは、胸のなかで反芻しながら美化されたもので、歴史的真実などではあるまい。人と人の間で語りいくらか伝説化され、伝えられ、やがて忘れさられていく。それが人間の死後に残るものの理想だろう。

 しかしながら、生きている間の楽しみを使いはたして死ぬわけにはいかぬ。いつでも、これからの楽しみを残しておかねば生きられぬ。楽しみを残したこの世に未練を残して死ぬのは、くやしいけれど仕方のないことだ。

(森毅『気がついたら死んでいた、が理想』)

〈了〉

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